水落山(スラクサン/640.6m/ソウル市)

ソウル市蘆原区上渓洞と京畿道議政府市南楊州市別内面にまたがっている水落山は、様々な奇岩が美しい調和を醸し出す山である。隣接する仏岩山と合わせるとまるでソウルに顔を背けているように見える山容から、李氏朝鮮建国当時、李成桂はこの山を「反逆の山」と称した。以前は近くの北漢山と道峰山の陰に隠れ、さほど注目されなかったが、最近は尾根歩きを楽しむ人々が押し寄せ、爆発的な人気を博している。

水落山という名は、主稜線上の岩峰がまるで切られた将帥の首のように見えることから「首落(ハングル読みは『水落』と同じ『スラク』)」になったという説と、山の東側に位置する内院庵一帯の沢に岩壁がそびえ立ち、そこを水が流れ落ちるところから「水落」になったという説が伝わっている。漢字表記は違えど、沢と奇岩の秀麗な姿がその名の由来であることをうかがい知れる。

水落山の西側に位置する「石林寺沢(ソンニムサケゴッ)」は、かつて三角山重興寺で学んでいた梅月堂・金時習[1]が、1455首陽大君端宗を追放し王位を剥奪したという知らせに接し、全ての書物を焼却した後に当て所のない流浪の旅に出て初めに潜んでいた所である。金時習の意を受けた李氏朝鮮後期の実学者、西渓・朴世堂[2]はここに淸節祠を建て、実学の研究と後進の指導育成をしながら一生を過ごした。朴世堂の寛大で慈しみ深い「長者(=人徳者)」の姿は、「長者洞」などの地名として残り、今に伝わっている。

水落山の南西側では「水落谷(スラッコル)」(別名「碧雲洞沢(ピョグンドンケゴッ)」)が絶景を成す。英祖の時代に領議政を務めた洪鳳漢[3]はここに友于堂を建て、当代の碩学達と共に政治と忠孝について論じた。また、南側の麓には宣祖の実父である徳興大院君の墓域があり、又の名を「徳陵(トンヌン)」という。興国寺はその願刹[4]であり、ソウル市上渓洞から南楊州市別内面徳松里へと越えていく峠の名を「徳陵峠(トンヌンコゲ)」という。

水落山の東側にある内院庵は、正祖の積極的な後援のもと大きく栄え、世子の純祖誕生に関する説話が語り継がれている。また、南側の兜率峰(トソルボン)山頂直下にある龍窟庵は、1882年の壬午事変当時、明成皇后閔氏驪州地方へ逃避する際にここへ立ち寄り、礼を尽くした所として有名である。

水落山への最寄り駅として7号線マドゥル駅水落山駅長岩駅4号線タンコゲ駅があるが、そのうち最も多く利用されているのが水落山駅を起点とする周回コースである。このコースは、岩場の景色が水落山で最も美しいとされる息切れ峠(カルタッコゲ)から山頂までの間[5]と、主稜線一帯を全て見て回れるという長所がある。また、長岩駅を起点として山頂に登り、そのまま主稜線を南下、龍窟庵と鶴林寺を経由してタンコゲ駅へと下る縦走路も人気コースである。タンコゲ駅とマドゥル駅は登山口までの距離が長く、主に下山ルートとして利用されている。

水落山駅の1番出口は水落谷へ、3番出口は蘆原谷(ノウォンゴル)へと続いている。1番出口を出て100mほど行くと、「念仏寺(ハングル表記염불사 1000m→」と書かれた道標がある。その右側の路地は、登山客に海苔巻き(キンパプ)や豚足(チョッパル)などを売る露店や屋台が並び、ごみごみした雰囲気を漂わせている。この路地を通過すると水落谷入口である。

山頂には高さ約3mの丸い奇岩が立っており、その上に太極旗が掲げられている。その下には「水落山主峰(ハングル表記수락산주봉 637m」と刻まれた小さい山頂碑がある。水落山の標高は、2005年刊行の地形図から「640.6m」に変更された。

下山ルートで出会う「千祥炳[6]の山道」には、詩人の様々な作品が展示されている。「水落山は不愉快に背を向けて座った/樹木は地上の平和/藁葺家は農家の象徴/ソウルの中心街は約1時間/ここはただひたすら天下泰平…」などの「水落山下辺」詩を詠みながら山行に終止符を打つ。
<月刊「山」 全国名山地図帳解説より>

[1]金時習(キム・シスプ) 14351493年。李氏朝鮮初期の学者、文人。
[2]朴世堂(パク・セダン) 16291703年。
[3]洪鳳漢(ホン・ボンハン) 17131778年。
[4]願刹 創立者が自身の願を込めたり亡者の冥福を祈ったりするために建立された寺。
[5]投稿者はこのコースを登った経験がないが、登山地図を見ると点線の難路となっており、注意が必要。
[6]千祥炳(チョン・サンビョン) 19301993年。詩人。

<2010年10月9日に撮影した動画>

<登山地図>
動画の登り=赤 下り=青 
それ以外の日に投稿者が歩いた登山道=緑

<山頂の太極旗と山頂碑>

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