雲岳山(ウナクサン/935m/京畿道)

雲岳山は、京畿道抱川花峴面と加平郡下面の境に位置し、漢北正脈[1]上にそびえている。古来より、坡州市の紺岳山(カマクサン 675m)、開豊郡の松岳山(ソンアクサン 488m)、加平郡の華岳山ソウル市の冠岳山と共に「京畿5岳」の一つに数えられる名山である。加平郡の「加平八景」の第六景として「雲岳望景(=雲岳山の望景台(マンギョンデ)から見下ろす眺望)」が選ばれており、加平郡において雲岳山は貴重な名所と見られている。

雲岳山は、四方八方どこから見ても岩場で覆われている。雲岳山南側の新上里に暮らす住民によると、古くからの名は「石山(ソクサン)」であったという。古来より先人たちはこの山を見て、誰はばかることなく「小金剛山」(金剛山の縮小版という意から)と呼び合った。

望景台、神仙台(シンソンデ)、稚児岩(アギバウイ)、雲岳山城、虹滝(ムジゲポッポ)、牛尾滝(ソッコリポッポ)などと一体化した奇岩怪石、そして千年の歴史を持つ古刹・懸燈寺(ヒョンドゥンサ)、さらには百年滝(ペンニョンポッポ)、舞雲滝(ムウンポッポ)、弥勒岩(ミルッパウイ)、屏風岩(ピョンプンバウイ)、男根岩(ナムグンソッ)、象岩(コッキリバウイ)など、数十か所余りに達する秘境地帯が山全体を埋め尽くしており、そのような美辞麗句が並ぶのも尤もなことである。

雲岳山は、北方から円通山(ウォントンサン 567.2m)へと連なってきた漢北正脈の峰々を、南側の稚児峰(アギボン 772m)へと繋ぐ位置にある。稚児峰は、雲岳山を母なる山と見るとまるで母の懐に抱かれたような山容であることから、住民たちにより古くから呼ばれてきた名である。

雲岳山の山頂は、国立地理情報院刊行の地形図に935mと表記された頂で、「東峰(トンボン)頂上」と呼ばれている。別名「青鶴台(チョンハクテ)」とも呼ばれるこの頂は、萬海・韓龍雲がここで瞑想し十玄談序論という有名な文を考えた所として知られている。

山頂から北西方向に約300m離れた所に、山頂より0.5m低い934.5mの頂があり、ここを「西峰(ソボン)頂上」という。西峰から約50mの距離に、雲岳山で最も見晴らしの良い望景台がある。

雲岳山随一の寺刹である懸燈寺は、新羅の第23法興の時代に、インドから新羅を訪れた摩羅呵彌という僧侶のために創建されたという説が語り伝えられている。また、新羅の孝恭王2年(898年)に道詵国師[2]が創建したという説、高麗の熙宗6年(1210年)に普照国師3度目の創建をし懸燈寺と名付けたという説、その後李氏朝鮮の時代に入り、太宗11年(1411年)に函虛祖師[3]が三角山(現在の北漢山)から五神山(現在の五台山と思われる)へ行く途中で道に迷ってしまったが、その時1匹の白鹿が先導してくれるのを見て、付き従って行くと昔の寺跡があったため、その場に建て直し4度目の創建をしたという説などがあるが、正確な創建年代の記録は伝わっていない。

雲岳山西峰の北西方向にある険峻な岩稜に建っていた雲岳山城跡は、別名「弓裔の隠れ城」や「花城」とも呼ばれている。花城は、現在の花峴里が昔は花城里と呼ばれていたことから付けられた名である。

雲岳山城は、甄萱城[4]、咸王城[5]と共に、新羅末期の豪族の歴史を明らかにできる貴重な建造物として評価されている。山城跡の長さは約2.5㎞に達し、高さは低い所で0.5m、高い所で3mに達する二重城である。このように独特な形をした雲岳山城であるが、その唯一の記録としては、英祖34年(1758年)に李世郁(イ・セウッ)などが編纂に携わった「堅城誌」の山川条に、「雲岳山は抱川県の東方25里にある。加平県懸燈山の西方にある。山の頂に宮殿跡がある。」という記録がある。

城跡は相当部分が毀損状態にある。牛尾滝と虹滝の間の岩稜に、城郭の形が最もよく残っている。
<月刊「山」 全国名山地図帳解説より>

[1]漢北正脈(ハンブッチョンメッ) 太白山脈から漢江へと至る山脈。
[2]道詵国師(トソンクッサ) 827898年。新羅末期の僧侶。風水説の大家。
[3]函虛祖師(ハモジョサ) 13761433年。李氏朝鮮前期の僧侶。
[4]甄萱城(キョンフォンソン) 後百済の始祖甄萱江原道原州市文幕邑厚用里に建てた城。
[5]咸王城(ハムァンソン) 京畿道楊平郡玉泉面龍川里にある高麗時代後期の山城。

2010529日に撮影した動画>

<登山地図>
動画の登り=赤 下り=青

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